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龍光院の歴史
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【所 在】岩井、字屋敷四二四番地
【具 名】岩井山龍光院安楽寺
【宗 派】真言宗豊山派
【本 尊】不動明王
【由 緒】当寺は岩井地区の中心部に位置し、隣接する将門神社とともに、平行して南面している。創建の時期については、大正初年の『寺院明細帳』には、当寺は「長享二年三月創立」、境内の地蔵堂は「長享三年七月創立」と記載されている。これらの根拠は不明であるが、寺有墓地には現在四基の板碑が見出さら、年号の解読可能な一基は明応十(1501)年の弥陀一尊板碑であり、長享二年(1488)年から間のない時期の建立であることが注目される。したがって、『寺院明細帳』の記載は史実を伝えるか、またはそれに近いものと推定される。とすれば、当寺は豊山派の古刹、清瀧院の同じ末寺として、隣の鷲野谷善瀧寺と共に、ほぼ同時期に創建されたことになろう。
境内には、将門の伝説を秘めた地蔵堂がある。安政三(1856)年に彫られた『地蔵尊縁起』の板木によれば、昔、将門の娘であった如蔵尼が、将門と、その一門の菩提を弔って地蔵尊を崇敬し、堂宇に祀った。その後にこれが破損して、尊像も行方不明となった。しかし、印旛郡萩原村尊像が発見され、そこに堂宇が建てられて安置された。これが安政三年に龍光院に返還されてふたたび祀られることとなった、という。現在の堂宇は、この安政三年(1856)年の再建で、棟梁は越後国の虎蔵である。九尺四方の小堂ながら、三方の濡縁と向拝が付けられた寄棟造りである。厨子に収まる地蔵尊は端正な立像で、嘉永二(1848)年に修復されていたが、昭和五十三年八月にふたたび修復して金色の光を放っている。
当寺は江戸初期の元和二(1616)年、岩井村が全焼したといわれる大火により、諸堂を焼失している。本堂はそののち再建されたが、現在の堂宇は文化十二(1815)年六月の再改築である。向拝には豪快な獅子鼻が付き、中備には松に鳥の彫刻がみられる。大間との内陣の格天井一六八区画には、当地区を初めとする近隣諸村の旧家の紋章が極彩色で描かれ、建物が多勢の浄財喜拾で成ったことを示唆している。本尊の不動明王は、文政二(1819)年に勝矢五兵衛によって修復されている。
山門は九尺四方の総欅造りで、天井が張られている。やや破損しているが、元禄年中(1688〜1704)の建立にかかる本町有数の古建築である。また、庫裡は昭和四十五年に旧屋を解体して改築された。
【行 事】八月十八日 施餓鬼会
【石 塔】1、地蔵尊 宝永三(1706)年以後、橋本長右衛門建立
2、標石(新四国七三番)文化五(1808)年十月建立
3、石幢(六地蔵)文政十三(1830)年二月、講中建立
4、地蔵尊 嘉永元
5、同右 十月建立(元号破損)
【所有地】境内地 1,580.04平方メートル
その他 8,643.56平方メートル 合計10,223.60平方メートル
▼ 龍光院の地蔵堂 ▼
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【建 物】
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名 称
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間口×奥行
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様 式
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建立時期
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本堂
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七間×六間
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方型、茅葺覆鉄板
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文化十二年
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庫裡
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五間×四間
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切妻、鉄板葺
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昭和四十五年二月
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山門
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九尺四方
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同、同
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元禄年間
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地蔵堂
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九尺四方
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寄棟、鉄板葺、向拝回廊付
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安政三年
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大師堂(六番)
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三尺五寸×五尺五寸
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切妻、唐破風向拝、鉄板葺
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嘉永五年三月
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大師堂(七三番)
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三尺五寸×五尺五寸
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同、鉄板葺
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明治七年四月
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【尊 像】
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名 称
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形 状
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由 緒
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不動明王
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木彫、立像、像高四八cm、彩色、宮殿入
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本尊、昭和五十一年修理
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地蔵菩薩
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同 、同 、同 四.五cm、厨子入
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地蔵堂本尊
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阿弥陀如来
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同 、同 、同 五六cm
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薬師如来
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同 、座像、座高二二cm
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地蔵菩薩
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同 、同 、同 二二cm
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子安観音
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同 、彩色、座像、座高二〇cm
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弘法大師
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同 、同 、同 、同 三七cm
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興教大師
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同 、同 、同 、同 三七cm
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弘法大師
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石像、座像、座高三五cm
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大師堂(六番)本尊
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弘法大師
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同 、同 、同 三七cm
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同右(七三番)本尊
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